自己紹介

1:幼少期

僕「どうすれば王様になれるの?
父「民衆を説得すればなれるよ
僕「   ・・・」

この会話は僕の記憶に残ってる
小さかった頃の僕と
若かりし父との会話です。

子供だったとはいえ
さすがに当時の僕でも
王様になんかなれるはずはない
と分かっていました。

日本は天皇制だし
世襲制だし
無理に決まってます。

一般大衆の僕が
天皇制を廃止して
国王に即位するなんて
馬鹿げてます。

でも、父は
馬鹿げてるとは
思わなかったようです。

王様になんかなれるはずないだろう
という答えが返ってくるのが分かってて
聞いてみたのですが

民衆を説得すればなれる
という想像を絶する答えに
僕は度肝を抜かれました。

僕の記憶に残ってる
一番最初の印象的な出来事です。

今この文章を書きながら
感極まってしまいました。

子供に対して決して
不可能だ
と言わなかった父の姿勢に感服します。

父は若い頃他界しましたが
生きていれば、このことについて
話し合ってみたいな~。

僕は鮮明に覚えてるけど
父は覚えてるだろうか?

この時の会話が
その後の僕の価値観や思考を
形作ったのです。

確かに
僕が大きな影響力を持ち
大衆に語りかけ説得し
政治を動かし皆が納得すれば

僕が日本国の王様になれる可能性は
0%ではありません。
父はそう言いたかったのだと思います。

お前にはそれだけのエネルギーと可能性がある
と言いたかったのでしょうか?

偉大な父でした。
父の遺伝子を受け継いでることを
誇りに思います。

もし僕に子供ができて
同じようなことを聞かれたら
父と同じように答えてあげたいですね。


2:幼稚園時代

幼稚園で僕は
ちょっとした『問題児』だったようです。

友達と一緒に遊ぶことをせず
いつも一人でポツンとしてたそうです。

幼稚園は苦痛でした。
僕には分かっていたのです

幼稚園とは日本の社会の
型にはめる教育だということが

サラリーマンを育成する工場へと
放り込まれたのです。

今なら『社会不適合者』だ
と言われてしまいそうな子供でした。

子供だったので
主張することも
反論することもできません。

一人でポツンとしてることが
精一杯の反抗だったのです。

いつも絶望的な気持ちでいました。
幼稚園の頃の記憶はほとんどありません。

小学校へ進学した時の開放感は格別でした。
周りに迎合せず心の中に灯ってる
大切な炎を守り通したのです。


3:小学生時代

小学校でも僕はなかなか
適合できなかったようです。

給食を食べるのが遅くて
あなたは食べるのが遅いのだからみんなよりも早く食べ始めなさい
と担任の先生に怒られました。

怒るほどのことじゃないだろう
と悔しく思っていました。

給食に出てくるパンは食べたことがなく
なかなか喉を通らなかったのです。

家ではサザエの刺身や
親戚の家では伊勢海老の刺身を食べたり

子供の頃から舌が肥えてたので
美味しくない給食を食べるのが
苦痛でしょうがなかったのです。

母からは
あんたは子供のくせに舌が肥えてる
とよく文句を言われてました。

3年生の夏休みに父の転勤で
大阪から東京へ引っ越すことになったので
区立の小学校へ転校することになりました。

東京で大阪弁を喋ると
軽いいじめを受けました。
でも、すぐに標準語になってしまいました。
子供なのであっという間に適応したのでしょう。

自信もなく自己肯定感も低かったので
小学校高学年になるといじめの対象になりました。

今ほど陰湿ないじめではなかったですが
ある日を境に僕は勇気を振り絞って
ノー」と言うようになりました。

掃除中にちょっかいを出されたら
すぐさまホウキを放り出して
帰ってしまったり

我慢ならない奴は
階段から突き落としたり

酷い目に合わせるつもりで
反抗してるうちに
あいつを怒らせたら面倒だぞ
と思わせることに成功したのです。

いつの間にか
ちょっかいを出されることも
なくなりました。

卒業を迎えた時
リセットできることが嬉しかったですが

ほとんどみんな一緒に
隣の区立中学校へ進学します。


4:中学生時代

中学校は一番楽しかったと思います。
友達も多く、勉強もそこそこできたし
女子とも仲良かったし
先生からも可愛がられていました。

それでも、相変わらず自信もなく
自己肯定感も低かったと思います。

この精神的な弱さは後々まで引きずりました。
自分を解放させてやることができず
内向きで人との関わりを避けていました。

思春期独特の不安定さだろう
ぐらいに思っていたのですが
それは大きな間違いだったのです。


5:高校生時代

高校は都立の高等学校へ進学します。
中学校からの友達も多かったです。

コンピューターテストで
絶対に合格するとわかってた高校なので
学年でも成績は良い方でした。

一年生の夏休みに『臨海学校』があり
遠泳』があると聞きました。

僕は全くと言っていいほど泳げません。
死ぬな」と思いました。

どうにかしなければ
と考えあぐねて
泳げるようになるために
水泳部』に入部することにしました。

水泳の練習さえできれば… 
という軽いノリだったのですが
この水泳部は毎年のように
インターハイへ出場する強豪だったのです。

毎日の練習は死ぬほど苦しかったです。
朝練後、体力を消耗しすぎて
嘔吐する新入部員もいたほどです。

僕も体力を消耗するので
大量の食事とおやつにチョコレートを
毎日のように食べてましたが

入部して1ヶ月間で
体重が5キロも落ちました。

きつい練習の毎日でしたが
それもすぐに慣れてきました。

あれほど恐れていた
臨海学校での遠泳は楽勝でしたね。
5キロ泳いでも疲れ知らずでした。

東京では父の会社の社宅に
住んでいたのですが
郊外に一戸建ての家を購入したので
引っ越すことになりました。

都立高校へ通うのも大変なので
県立の高等学校へ編入することになりました。

偏差値は数字上同等でしたが
実際の学力は都立と県立では
かなりの開きがあったようです。

僕の学力なら学区内で1番の県立高校へ
行ってもよかったんじゃないか
と後悔しました。

都立高校の環境が良かったので
この県立高校には不満だらけでしたね。

都内から電車に30分乗っただけで
こんなにも田舎なのか
と思わされることが多々ありました。

それは町全体の雰囲気にも
学校の雰囲気にも
先生にも、生徒にも言えることです。

校則や先生の考えかたなども
古くさかったり
先生とぶつかることも多く

やればできるのに全然勉強しなかったり
またしても問題児として見られていました。

それでも、文化祭の実行委員となり
イベントを企画運営する楽しさを知りました。

部活は今まで考えもしなかった
演劇部』に入部しました。

顧問の先生から誘われたので
入部したのですが

舞台で演じるのは
人生をかけてもいいと思えるほど
楽しかったですね。

でも、今考えると
普段の自分を肯定してやれないのに
舞台の上にいる時が本当の自分だ
と思う事は間違っていたのです。

勉強も全然してなかったので
大学は最初から諦めていて
当時流行っていた留学をしよう
と英会話の専門学校へ進学します。


6:専門学校生時代

アメリカの大学付属の語学学校の日本校
という珍しい形態の専門学校へ
進学したのですが

僕は親からの援助を受けたくないと考え
新聞配達をしながら学費と生活費が稼げる
新聞奨学生』となりました。

自分で自分のことが
わかってなかったんですね。

仕事しながら学校へ行くのが
どれほど大変なことか
嫌と言うほど思い知らされました。

結局、学校へ行くのは諦め
新聞配達の仕事だけ続けました。
留学もとっくに諦めていました。

でも、親元を離れ
自分の力でお金を稼ぎ一人で暮らしていく
という貴重な経験ができた事は
その後の人生の糧となりました。


7:社会人時代

新聞配達は一年間の契約だったので
その後、親元に戻り親の紹介で
今でいうIT企業でプログラマーとして
働き始めます。

僕は子供の頃から機械いじりが大好きでした。
どんな仕組みで機械が動くのか知りたくて
ありとあらゆるものを分解してきました。

コンピューターが動く仕組みを学ぶのは
とても楽しかったです。

3年ほど勤めましたが
仕事が面白いと感じることがなかったので
辞めることになります。

その後、父の薦めで
園芸専門学校へ行くことになります。


8:再び専門学校生に、そして統合失調症発症

父は庭いじりが好きでした。
花や植物が好きで
休日はずっと庭仕事をしてました。
父の夢は花屋を開業することでした。

そこで、仕事を辞めた僕に
一緒に花屋を開業するため
園芸専門学校で花について学ぶことを
薦めてきたのです。

正直、僕は花に対して
興味はありませんでしたが
商売をすることには興味があったので

面白そうだ
と思って園芸専門学校へ
進学することに決めました。

勉強する意欲はあまりなかったので
遅刻や欠席することも多かったですが

入学してから3ヶ月ほど経って
精神的な病気を発症しました。

幻聴が聞こえたり
あり得ない妄想をするようになったため

親の勧めで総合病院の精神科を
受診したところ
統合失調症』と診断されました。

自分が精神の病気だなんて
最初は受け入れられず

周りが自分を貶(おとし)めるために
変な小細工をしてるのだ
と思い込んでいました。

障害者手帳』も交付され
精神の障害者となってしまいました。


9:過去を振り返って

20代、30代の時期は
精神病のため
遊ぶことも仕事もできず
一番楽しい時間を失いました。

とても辛い経験でしたが
長期にわたり
己自身と向き合うことができたことは

生きていく上での貴重な財産になった
と今では考えています。

精神的な弱さも克服でき
気持ちだけは誰にも負けない
という強さを持ち合わすことができました。

暴飲暴食をした時期もありますが
管理栄養士の指導のもと減量に成功し
健康を取り戻しました。

次の目標は『禁煙』と掲げてみたものの
何度も失敗し諦めかけたのですが
禁煙外来が自分には向いてたようで
無理だと思ってた禁煙にも成功しました。

健康を害したり経済的に困窮したり
苦しい思いもしてきましたが
家族や知人にも助けられ
乗り越えてこられました。

ドロップアウトした人生ですが
だからこそ思います。
人生を思いっきり楽しもう』と

  • 行きたい所へ行って
  • 見たいものを見て
  • やりたいことをやって
  • 健康を害さない程度に食べたいものを食べて

そして、苦楽を共にできる『パートナー』がいれば
楽しみは二人で倍にも三倍にもなると思います。


10:これからの未来

僕は昔から自分で商売をしたかったので
ネットビジネスの勉強もしたのですが
今こそこのスキルを発揮する時だ
と思いました。

今までの会社にはもう頼る事はできません。
これからは個人で稼ぐスキルがなければ
生き残っていけないでしょう。

仕事も個人の生活も
自粛自粛で経済が疲弊してる中
勢いがあるのはAmazonなど
ネット上で商売をしてる会社だけです。

みんなが自宅待機してるという事は
それだけパソコンに向かう時間も
多いという事です。

もう、今までの生活
今までの仕事には戻れません。

僕はブログからの広告収入を
大きな柱として
ネット関係の仕事をしていくことに
決めました。

時代の変化に適応していく者しか
生き残れません。

いずれみんな追随してくるでしょうが
僕は一歩も二歩も先を行きたいです。


11:人生観

最も強い者が生き残るのではなく
最も賢い者が生き延びるでもない
唯一生き残るのは、変化できる者である。

引用元:チャールズ・ダーウィンの名言

これはダーウィンが残した言葉ですが
変化の激しい現在の生き方としても
必要な考え方だと思います。

僕は子供の頃から
引っ越しが多かったせいか
安住や定住とは縁がないようです。

新しいものには
すぐに飛びつきます。

なので、パソコンやネットなど
最新のテクノロジーにも詳しく
ネット上でビジネスをやることにも
抵抗がありません。

生き方や価値観なども
その時その時で
刻々とアップデートしています。

だから
これが俺の生き方だ
これが俺の働き方だ
と言えるものはないですね。

過去を振り返って』の章で
己自身と向き合った」ことを
話しましたが

己自身と向き合ったことのない人は
他人と向き合うこともできないと思います。

『己自身と向き合う』
と簡単に言いましたが
実はこれが一番難しいことです。

詳しくは以下を参照してください。

人生を豊かにするためには
とても大切なことだ
と僕は考えています。

以上、僕の自己紹介でした。
これを読んで興味を持っていただけたら
嬉しいです。

これも何かの縁だと思うので
よろしくお付き合いください。
ありがとうございました。


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